序章


 煙が一筋たなびくように、甘い血の香が鼻先へ届いた。
 蒸気機関の騒音から逃れようと無意識に聴覚を落としていたらしい。見張りだけでは心許ないと、自ら見回りに出て正解だった。この微細な香りは人間では気づけまい。
 彼は頭から被った黒い外套を引きずり、揺れる通路を危なげなく進む。この車両に乗客は一人だ。手足を拘束し、口枷を噛まされた小娘が一人、最奥の個室に監禁されている。
 血の香りはそこから漂っていた。
 彼の頭に一瞬、『自死』の言葉がよぎる。
 懸念を振り払おうと耳を澄ませば、個室の中に息遣いが二つあった。侵入者がいる。
 幾重にも張られた結界を破り、なおかつ彼にも気づかれずに侵入できる者となれば、自ずから答えは絞られた。結界を張った術者本人だ。
「……だから、魔術師を使うのは気が進まなかったのだ」
 口元を覆う布の下から、安堵と不満の入り混じった掠れ声が零れた。
 彼は扉の前に立ち、覆面を押さえて小窓を覗き込む。
 狭い室内には小柄な少女が腰掛けていた。その足元には壮年の男がしゃがみ込み、彼女の細い手首に小刀を添えて、傷口から伝う血液を小瓶へ集めていた。二人の足元では、壊された手枷が列車の振動で小さく飛び跳ねている。
 少女は豊かな金の髪に隠れて震えていた。口と足は拘束され、逃げることも声をあげることもできない。ただきつく目を閉じ、痛みに耐えている。その淡い睫の先で、窓から差し込む夕日が規則正しく揺れていた。
 その様子を愉悦に満ちた表情で眺める壮年の男は、彼の同族ではない。人間だ。本来ならば狩られるべき存在の人間が、その欲深さゆえに同じ人間の血を求めている。
「……そのぐらいにしておけ。また死んでは困る」包帯の巻かれた手を扉へかけ、引く。軽く力を込めただけで鉄の鍵は弾け飛んだ。「城へ着くまで採血は禁じたはずだが……なめられたものだ。今までに幾度、私を謀ってきた?」
「ランスヴァルド様! とっ、とんでもない! 此度が初のことにございます!」
 壮年の男――魔術師の人間は血相を変えて少女を手放した。床に手をつき、悲壮な声をあげる。「お許しください! この娘が城に着けば、国王を初めとした一部の権力者がこの力を独占してしまうのです。私めのような下賤の者は、二度とこの素晴らしい世界に触れることはできないでしょう。その前にどうか、もう一度だけと……!」
「味をしめたか……。愚かな。その我欲が彼の精導士を殺したのだ」
 精導士とは精霊と意思を交わすことができる魔法使いだ。魔力の根源たる精霊を使役するため、一般的な魔術師のように魔力の限界がない。人の身で扱えば魂ごと消し飛ぶような大魔法を際限なく扱うこともできる。なぜなら、彼らは精霊の血を引いているからだ。
 凡百の魔術師を揃えても、一人の精導士に敵わない。どれだけ努力をしようとも、魔術師が精導士になることはない。――その常識が、一年前に覆った。
 きっかけは些細な皮肉だった。長年ランスヴァルドが食客として世話になってきたエン国の夜会で、大臣が『貴殿らが高貴な血を嗜まぬのは、その身が不浄故にか』と彼を嘲笑ったのだ。同族を侮辱されては黙っておれぬ。自分の舌で確かめろと、彼はすぐさま乞食から商人、貴族、魔術師や精導士を集めて、人間共へ振舞った。
 すると、ある精導士の血を口にした魔術師たちが精霊の姿を見るようになったのだ。見えるだけではない。呼びかけるだけで精霊は微笑み返し、望むがままに大魔法を許した。
 魔術師たちは狂喜した。朝に願い、昼に願い、夜に恨んだ才能だ。もはや世に天地の区別なしと、手放しの喜びようだった。国としても精導士が量産できればあらゆる面――主に軍備面での莫大な利益に繋がる。国家の未来を肴に、宴の席は大いに沸いた。
 だが、その効果は一時のものだった。常に血液を摂取しなければ力は消える。
 魔術師たちは提供主の男を拘束し、死ぬまで血を抜き続けた。遺体が干からびると他の精導士を片っ端から試し――彼だけが特別だったと知った。
 エンの国王は件の精導士を調べさせ、彼の家系が現存する精導士の中で最も新しく、精霊に近かったことを突き止めた。そしてその尊い血が、既に途絶えてしまったことも。
 より濃い血統を持つ者を探し出すのは容易ではなかった。国の内外を問わず探し歩いて、隣国から更に東の彼方、精霊の住まう『大森林』ならばよもやと訪れた先で見つけたのが、あの少女、フェルネット・ブランカだ。やっとのことで手に入れた逸材だというのに。
「人間はか弱い。女子であれば尚の事……。良い機会だ、お前も一度、己がどこまで失血に耐え得るか試してみるが良い。私とて助力は惜しまぬぞ?」ついと一歩、歩みよる。
「ひっ……! それだけは、それだけはどうかお許しを!!」
 哀れな魔術師は血の気を失って、何事かを叫びながら唾を飛ばして足元に縋りついてきた。掴まれた外套が引き攣れ、ランスヴァルドの顔が顕になりかける。
 反射的に男を蹴り飛ばした。
 フェルネットの澄んだ悲鳴が汽笛と重なった。知らぬ間に口の封じを外していたらしい。
「わかったなら、以後は丁重に扱え。娘にもしものことがあれば、楽に死ねると――」外套を直しながら追討ちをかけようとして、魔術師が白目をむいて気絶していることに気づいた。手加減を間違えたらしい。「軟弱な。これだから人間は扱いに困る」
 溜息と共に爪先で男を小突いた時、窓際からカタンと小さな音がした。見れば、少女が列車の窓を開け放っている。結界で施錠してあったはずだが……術者が気絶したためか。
 少女の長い金髪が風に翻弄される。身を乗り出すと窓枠で軽くすぼまり、するりと抜けて硝子の向こうではためいた。同時に白い手が窓枠へかかる。飛び降りるつもりらしい。
「無駄だ。この距離では落ちる前に私がお前を捕らえる。第一、その足では逃れ得まい」
 窓枠までわずか数歩。その距離すら詰めずに、ランスヴァルドが冷めた声をかけた。
 少女の動きが止まった。我に返ったのだろう。窓枠にかけた指先が小さく震えていた。
 諦めたように窓から身を引いて、フェルネットが振り返った。小作りな顔に映える大きな瞳が彼を捉えて怯える。鮮やかな緑の瞳が沈んで見えた。
 この華奢な少女に後先も考えず逃げ出したいほどの衝動を抱かせたことを、彼は心中苦笑した。不器用が災いしたのは何度目だろうか。人間の扱いは本当に難しい。
「良い子だ。恐れずともよい、そのままこちらへ」
 差し出した手を、少女は強張った顔で拒否した。
「……行けません」澄んだ声が震えていた。「聞きました。エンの王様はわたしを使ってテアに戦争を仕掛けるつもりだって。悪い人の所へは行けません」
「ほう、よく知っている。従者共から漏れ聞いたのか?」
 緑の視線を一瞬宙へ走らせて、フェルネットは小さく首を振った。
「風の子が、お城に行っちゃだめだって。早く逃げてって」
「精霊の入れ知恵か。だが逃げてどうする? どこに在ろうとお前は火種だ。人の欲望がある限り、彼奴等の牙からは逃れられぬ。おとなしく従うのが得策だろう」
 フェルネットの顔が泣き出しそうに歪んだ。強く、妄執を打ち消すように首を振る。
「わたしは帰らなきゃいけないんです。帰って、皆に謝らなきゃ!」
「あの箱庭に帰還を望むか。……ならば仕方ない、従わせるまでだ」
 瞬時に間を詰める。細い首へ手を伸ばしかけ、躊躇った。この力ではへし折りかねない。
 その隙にフェルネットが頭を抱えてしゃがみこんだ。恐怖からの防御反応か――否。
 列車の振動音が変わった。高く響く、鉄橋のそれに。
 気づいたときには遅い。窓の外から飛び込んだ大量の水に飲み込まれていた。
 勢いに押されて体勢が崩れる。濡れた覆面で息ができなかった。
 水……! おのれ精霊め!
 精霊が最も得意とする媒介物が水だ。少女共々、列車が河に差し掛かるのを待ち構えていたのだろう。迂闊だった。
 見えない手に引き上げられたように、少女の体が流れに逆らって窓から抜け出た。
「待て!」外套を絡みつかせて窓枠へ手をかけた瞬間、耳をつんざくような汽笛があがる。合わせて列車がぐんと速さを増した。動力源が暴走した? 違う、蒸気機関……水か!!
 見る間に少女との距離が開いていく。水柱の中を緩やかに降りる少女は、淡い煌めきの中で微笑んでいる。鮮やかな緑の瞳が此方を捕らえた刹那、その微笑みが凍りついた。
「き、ききききっ、消えされええ!」
 裏返った声が耳を突いた。彼のすぐ隣で、意識を取り戻した魔術師が魔法を放っていた。
 水の柱が弾け飛ぶ。
 きらきらと輝く水滴を宙に残して、少女は落ちていった。悲鳴は遥かな谷底へ。
 小さな体は水面に強打し、沈んだ。

     ◆

 呼吸が浅い。助かるだろうか。
 夕刻、ランスヴァルドは下流の川岸で倒れているフェルネットを見つけた。精霊に助けられたのではという淡い期待も虚しく、彼女は腰から下を水に浸して倒れていた。濡れた額へ手を添えると、包帯の上からでもわかるほど冷たい。すぐに医者に診せなければ。
 しかし、と青白い少女の顔を見下ろす。
 人間の医術は同族のそれに比べて恐ろしく未発達だ。呪い師のような医者にわけのわからぬ施術をされて、みすみす娘を死なせるわけにはいかない。
 同族の医者に診せることができれば、あるいは……。
 不意に、この近くに同族の軍が配置した支部があることを思い出した。
 丁度良い。これに乗じて一つ、彼らに贈り物をさせてもらおう。
 ランスヴァルドは片手で少女を抱き、額に手をかざす。幾重にも巻かれた包帯の隙間からどろりと黒い液体が滴り、白い肌を汚した。

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